5 国鉄、四国鉄道の発祥地・多度津
 
 現在の国鉄四国鉄道の始まりは、自慢でないが、わが多度津である。
 すなわち明治23年に、讃岐鉄道会社が、当町の景山甚右衛門さんによって創設され、多度津を起点として、東は丸亀町、続いて高松まで延長。南は琴平町までを、外国製の汽車を買入れて走らせたのである。当時はこの蒸気機関車のことを「岡蒸気」と言って、弁当持参で、勢いよく黒煙を吐き乍ら走るこの「岡蒸気」を見に来る人が大勢あったという。この鉄道敷設工事に私の父や、堀江ノ叔父なども人夫として、働きに行っていたことがある。日当は1日が7・8銭とかであったと聞く。
 開通当時、琴平まで運賃で汽車賃も1等・2等でなく、上等・中等・下等に区分され、当時の運賃は次の通り。





 なお、この鉄道の起点は現在の国鉄病院多度津分院のある処が当時の駅で、駅前からは馬車もあった。
 鉄道は丸亀・高松線と、琴平線の2線が並行して走り、1線は直線に延びて東の高松方面、1線の琴平線は堀江部落附近から南へカーブして、豊小校の西を通って琴平へ通じていた。私の家の側は、この2線が並行していて、現在私有している畑は、当時踏切官舎のあった処で、この踏切番は上山ヒナという女の人で、私の小さい時、よく大事にして呉れ、私もこの官舎へ毎日遊びに行った。それは汽車を見るのが一番の目的でもあった。大抵同時刻に多度津駅を発車するのか、黒煙を吐き乍ら、恰も競争するように並んで出て来た。 時には列車の中へ楽隊が乗込んでいて、汽車の中で騒いでいたのがよく見えたりもしたものである。
 この讃岐鉄道は山陽鉄道となり、その後、明治37年9月に鉄道国有法によって、国鉄となった。創立当時の二階建の駅舎は、取り壊されて多度津町役場として改築され、爾来昭和44年まで使用されていた。(現在はこの庁舎も古くなったので鉄筋五階エレベーターつきのモダン庁舎を建設中で昭和45年10月までに完成予定)

 昔のこの多度津駅も昭和4年、観音寺線や、阿讃北線(現在の土讃線)の開通に伴って「鶴ヶ落」の現在の処へ移転したのである。そして、土讃・予讃の両線の分岐駅として重要な地位にある。
 要するに四国鉄道の発祥地は、わが多度津であり、この大事業を計画した先覚者も、多度津人であることも肝に銘じておいて欲しいものである。四国鉄道の先覚者・景山甚右衛門さんに深く敬意を表するものである。


 私が子供のころは,すでにこの線路は,多度津駅から機関区への引き込み線になっていて,単線でした.一日何回か,修理のための機関車がここを通っていましたが,機関車の来るころを見計らって,線路に耳を当ててみたり,線路の上に釘を並べてぺっしゃんこにして遊んだりしたものです.今のように,「線路で遊ばない」ということをいわれることもなく,のんびりしたものでした.
明治36年頃,測候所前を走る列車


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