6 多度津の船宿今昔
 
 多度津は昔から、金比羅詣りの船で湊は賑っていた。
 特に天保年間に多度津の第五代のお殿さんが、当時の金で6200余両という大金を投じて、立派な内港(現存)を構き、西讃1等の良港となったので、港には出港入船で、大繁昌、したがって町に宿をとる旅人も多く、そのため東浜町筋には旅館が軒を並べて客を引いていた。
 大抵大玄関には、何々講中御指定宿などと書いた大きい金看板が何枚も吊してあり、入口には長さ2m・胴回り3mにも及ぶ大提灯がつるされ、それに、筆太く、「阿ハ亀」「なさひや」など宿屋名が書かれてあった。
 団体客などの時は莚をしいて道の方まで下駄や、ぞうりを並べてあるのを見たことがある。夕やみのせまって来る頃になると、大阪商船の赤帽が、哀調を帯びた声で「大阪・神戸、行きますエー」と言い乍ら、町筋を歩いたものである。
 また、こんな話を古老から聞いたことがある。多度津の旅館全部ではないだろうが、泊り客に、この出帆案内のふれ込みが来てから、急いで熱々の料理を出す。客は心せくのと、何しろ熱々の料理で手がつけられないので、食べずに出てしまう。後は丸もうけとなる仕組みだとか。ウソかほんとかは知らない。
 沢山あった船宿も、フエリーが出来たり、観光ルートの関係もあって急速に淋れ、現在では2・3軒がひっそりと続けている位である。この東浜の旅館のうちでも首位を占めていた老舗「花びし」も時流と人手不足で昨秋から、あの長い間口の雨戸を全部閉ざして休業したので一層港町として栄えた東浜通りは淋しくなった。


旅館「花びし」は,今では,それがここにあったという石碑を残すのみとなってしまいました.花びしについてはこちらのページをごらんください.
花びしのマッチ

 
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