ちらし寿司多度津町立資料館分館

2013/12/12更新


一太郎ヤーイ(梶ヤーン)     米田明三

 瀬戸の内海を眼下に望む多度津桃陵公園展望台に、一太郎やあいの銅像(実は現在のものは二代目でコンクリート造)が建っていることをご存じですか。日露戦争(明治37年〜38年)のとき、多度津港から出征する我が子を見送るために、夜を徹してはるばる五里の山道を歩いて港に駆けつけ、波止の突端から「梶ヤーン」と我が子の名前を呼び続けた母親の話が、「一太郎やあい」という出征美談として国定教科書(「尋常小学国語読本巻七」(第三期国定国語教科書)第十三 一太郎やあい)に取り上げられました。これが、香川県三豊村(当時)の母親岡田カメとその息子梶太郎であると新聞で報道されると、これこそ忠君愛国奉公精神の発露であると、映画、演劇、講談、琵琶歌などで喧伝されるようになり、ついには、ここ桃陵公園に「一太郎やあい」の銅像が建立されました。
 「一太郎やあい」は子供の頃から見慣れたもので、大体のお話は知っていましたが、このほど、多度津町文化財保護協会会報第20号(昭和52年6月)に、なんと、この事件の目撃者の回想録が載っていることを知りました。しかも、筆者である米田明三さんは、私の幼なじみの父親でよく知っていた方ですが、7歳のときに、波止でこの母親を間近で見て、「梶ヤーン」と呼ぶ声を直接聞いたというのですからびっくりしました。この回想録には、梶太郎親子のその後の消息や、「奉公記念碑碑文」「筑前琵琶歌全文」も採録されております。また、銅像除幕式の貴重な写真が掲載されており、そのあと旅館花菱前で撮られた記念写真の人物も特定されていて、これが一太郎に関する極めて重要な資料であることは明らかです。
 原文を入手することは困難ですから、ここにほぼ原文通りに全文を再掲して、多くの方々にもう一つの一太郎やあいをご紹介したいと思います。
初代一太郎やあい像
奉公記念標
昭和6年6月21日除幕式


多度津町文化財保護協会会報第20号(昭和52年6月)













 
一太郎やあいの銅像は昭和17年に供出されましたが、翌年には今井浩三町長の依頼により、町の彫刻家神原益太郎(象峰)氏によってコンクリート造で制作され、再建されました。
奉公記念碑 昭和11年建立(拡大 奉公記念標額 一太郎やあい銘板


尋常小学校国語読本巻七
  第十三 一太郎やあい
 日露戰争當時のことであった。軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時,「ごめんなさい。ごめんなさい。」といひいひ,見送人をおし分けて,前へ出るおばあさんがある。年は六十四、五でもあらうか,腰に小さなふろしきづつみをむすびつけてゐる。
 御用船を見つけると,「一太郎やあい。其の船に乗つてゐるなら,鐵砲を上げろ。」とさけんだ。すると甲板の上で鐵砲を上げた者がある。
 おばあさんは又さけんだ。「うちのことはしんぱいするな。天子様によくご奉公するだよ。わかつたらもう一度鐵砲を上げろ。」
 すると,又鐵砲を上げたのがかすかに見えた。おばあさんは「やれやれ。」といって,其所へすわつた。聞けば今朝から五里の山道を,わらぢがけで急いで来たのださうだ。郡長をはじめ,見送の人々はみんな泣いたといふことである。



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