ちらし寿司多度津町立資料館絵はがき

観光の多度津港

最終更新2013/12/13


多度津町が昭和8年に発行した多度津港の観光案内パンフレットです.
左写真の表紙に続いて下の写真の絵地図が描かれており,縦136o横355o五つ折りという小さなものですが,多度津港を中心とする海路,陸路の交通の要衝であることを絵地図として描いています.
四国内は勿論,対岸の岡山,広島,日本海側の鳥取,松江,出雲大社,東は名古屋,伊勢神宮,東京まで,西は九州熊本までという壮大な絵地図に感服します.


裏面には町内観光地の写真と案内,町内の地図(小さすぎて町名などは読めません),多度津町歌などが載せられています.
解説文は句読点なし(二カ所だけにある),漢文調の格調高い?ものです.できるだけ原文通りに採録しましたが,旧漢字でどうしても表せないものは新字体で書いています.


觀光の多度津港


 多度津港
多度津町と港 丘を硯岡海を筆海といふ彼の海の公園瀬戸内海を俯瞰して優越の眺望觀を有する桃陵公園の麓に天保年間京極藩公之を築き四国唯一の良港たり(明治四十三年改築)内海航路として貨客の輻湊は勿論四時金刀比羅宮善通寺の賽客年数十百萬東阪神西中国九州の定期航路及西部鐵道連絡船は日五回鞆尾道に其他嶋嶼連繋の細を極め陸上鐵路西愛媛南高知に直通し一は池田町より分岐徳島市に東は本線の宇野連絡高松線来り所謂交通網の中心地なり。尚地方的なる参宮電車は縣下唯一の複線を以て善通寺琴平に二拾分間毎に運転し定期自動車は西仁尾町東丸亀市南北の二線往来す仰阿讃工業の原動力たる四國水力電気會社は補助火力すら一萬五千馬力の出力を以て我が町に其礎を築き旅館も往年の面目を一新し客本位に力め商店も正札をモットーとして重軽工業も將来益興隆せんとする資源を有し美術工藝には優秀の作品を出す名工多く若夫れ狭斜享楽の巷は脂粉の香漂ひ弦歌湧くの仙境あり南国の情味一夕の旅情を洗ふに足る戸数二千、人口一萬市街清爽建築端正實に快適地の稱あり

      水霧茫々罩遠濱
      軽風吹散暁痕新
      帆檣林立市聲閙
      不問先知多度津      水越成章 

      水莖の岡の港の波よりや
         筆の海てふ名にや立つらむ       西行法師

 桃陵公園の一部
桃陵公園 中世香川氏貞治二年以後威武を讃西に振ふ凡二百餘年城趾絶えて幾百星霜明治年間此東隅を開き桃樹數百株旗亭點在稱して桃山と云ふ景勝絶佳遊客多かりしも經営踵かず遂に叢莽と化す昭和大典記念開拓の議起つ偶「一太郎ヤアイ」の銅像全國児童の手に成り此處に建設せんとするに會す松井師團長此通路開鑿に工兵督さる三週日同五年十月廿一日工成り桃陵公園と命名す其一半に櫻楓數千本桃樹數百株其他花卉珍石を配し近代式型を採り各個の展望臺各其雅致を異にし又其一半は鬱蒼たる自然林にして老樹千年の昔を語り幽邃閑古原人の境にあるを偲ばしむ特に偉觀として西北青波眠るの海に鹽飽群嶋は更なり遠く陰陽の山脉を雲煙の間に指呼し白帆黒船鴎鴉浮遊の如く曲浦長汀畫の如し東南一瞥萬畝の田園巍然たる讃岐富士を繞り土器金倉の清流を眼下にし遙に讃阿の連峰近くは象頭天霧の靈山其双眸に去来す眺望の廣大景趣の變化世人屋嶋の儔にあらずと激賞す春は花夏は涼み秋は月鹿の子まだらの雪の冬四季騒人墨客絶えず殊に桃陵神社祭の獅子大會は幾十百數歡舞賑盛縣内随一にして又園内辨天夏祭の煙火會は筆海為に紅く遊船来往梭の如し實に不夜城の呼物なり

 多度津海水浴場
多度津海水浴 京極藩陣屋跡の海濱にて白砂老松點綴せるの地水清く波穏にして夏季浴客相集楽天境なり參宮電車は夏季定期自動車を往復し浴客の便に供せり

 四國第七十七番道隆寺大師堂
道 隆 寺 東方約五町眞言宗本尊薬師如来四國八十八個所の靈場なり天平神護二年元明帝の時和氣善茂次子道隆桑樹千株を此地に植え其の大木に屡不思議あり因て道隆此木を以て薬師像を造り佛堂を建つ延暦中其孫朝祐(法光大師)に至り本寺を建て祖父の名を取つて桑多山道隆寺と云ふ弘仁中十四坊を造る佛力弘通し遠近善男女の喝仰の中心たり後兵燹にかかり再興したるも其舊態に遠し弘法大師の作及舊什頗る多し境内廣濶老樹多く幽閑清浄の佛域なり

熊手八幡神社 本町の産神郷社にして祭神は神功皇后應神天皇の御二桂なり昔皇后三韓より御凱旋途風波に遭はせ給ひ此浦に駐まらせ其際旗熊手等の兵器を賜はる村人之を齋き祭りて熊手八幡宮と稱す所因あり

海 岸 寺 青松白砂の淨地町を距る十數町眞言宗大同年間の創立と云ふ本尊弘法大師並不動愛染等を安置す此地大師修學の靈跡として有名なり大師の所縁に富み遺物頗多く信者全國に遍く今三重寶塔建立中

天霧城址 多度津本臺城主香川氏の奥城にして其頂上に在り大正御即位式の當時四季の御屏風に天霧山の雪と御治定あらせられ入江為守卿の
  久方の天霧山に降る雪は君が千歳を積まんとすらむ
の御詠進あらせらるる

鹽飽七嶋 嶋民海治に馴れ航海を常とす永正の頃八幡船の一部となり防長の雄大内氏に隷し戰功を樹て織田氏より海上權の獨占を許され又文禄六年には豊太閤朝鮮遠征の際水路嚮導の大任を負ひ論功によって無税嶋となり徳川時代常に海事の御用に服し諸嶋は天領として有名なり


多度津町の地図
縦85o,横65oの地図ですから町名などは本当に読みにくいものです.
私の生家は東新町ですが,地図では蛭子町に入ってしまっています.
測候所の裏が海水浴場になっているのも今では懐かしいものです.
地図をクリックすれば拡大されます.


多度津小唄
作詞は西条八十,作曲中山晋平です.
歌詞は十番まであって,結構,艶っぽいものです.

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