6 多度津藩主の墓 (丸亀市南條町)

 多度津藩は前記のように初代から6代で、大政奉還となり、ついで廃藩となったので、藩政はこれで永遠に終を告げた訳である。
 このうち当地に墓のあるのは、第2代の京極高慶と第5代藩主の京極高琢の2基だけが、後記するように、丸亀南條町裏手にあって、他の4人のものは、現、東京麻布の光林寺にある。この光林寺にある墓については、私は知らないが、偶々、私が多度津町史を編集していた時、当時の信濃勇町長が上京するとき、この調査を依頼して、同町史に登載してあるので、ここでは省略し、近い丸亀にある2人の墓について、少し蛇足に偏するが書きたいと思う。
 丸亀市南條町裏手に、丸亀西幼稚園運動場に接して、丸亀藩主の墓がある。小径一つおいて、多度津藩主、2代・5代の墓が小墓、數基とともにある。これが多度津藩主の地元にある墓である。
 このお墓を私が初めて知ったのは、昭和34年夏のことであった。当時、私は前にも書いたように、町から依嘱されて、多度津町史の編集にかかっていたので資料文献などの調査中、文献によって丸亀の玄要寺境内に、多度津藩主の墓のあることを知り、民俗学者・武田明先生と共に現地におもむいたのである。
 さて現地へ来ても一向にそれらしいものが無いので尚、方々探していたら、土塀はくずれ落ち、お堂の庇は傾き、雑草は1m以上も生い茂って、お墓に近寄れそうもないので、草を掻き分け乍ら漸く墓前に達した。そこで壊れかけのお堂の中をよく見ると、蜘蛛の巣一杯、上の方から蛇の抜殻が3つも4つもぶら下っていて、全く不気味の極で後ずさりする程であった。これも任務の一つと考え、堂内に入って墓の字と、かねて用意して行った文献を照らし合わせて、やっと確認した次第である。
 釋名は当時、半壊の門を入ってすぐが第2代藩主の墓で、泰嶽院殿前羽州大守安禅道寧大居士神儀と金文字入り立派なもので金色はまだ生きている。少し間隔をおいて同型のこれも崩れかけの小堂の中に第5代主京極高琢のもので、釋名、雲関院殿前壱州刺吏透翁道信大居士神儀と、これも金文字入の同型の墓であった。
 今は全く、お詣りする人もなく、何年も掃除をしないので、荒れ放題となり、壁はくずれ、家根は抜け落ち、庇は傾き、見るかげもない「無縁墓」になっていた。
 昔、世が世なら、おそらく墓守もいたことだろう。その当時だったら私ら小者は、この墓地にさへ入ることは許されないことであっただろう。それから私の任務も3年がかりでやっと上梓したので、常々私はこのお墓は、多度津町民にとって一番力をつくして呉れた第5代高琢公(多度津築港を造った名君)のもあるし、せめて、年一度位でもお掃除をして上げようと決心して、その年から実行に移した。
 毎年お盆を期して、鋸・鎌・熊手、それに自宅に出来た草花、お供えものを、その当日、早朝、近所の岩田八百屋の主人が丸亀へ買出しの軽四輪に積み込み、便乗して、現地へ行き、まづ雑草(1m以上)を刈り取り、木の枝を切ったり墓標の水洗などして持参のお供えものを上げる。一時は中学生に呼び掛けて、手伝って貰うよう考えたが、何分雑草の中に夏のことで蛇がウロウロし、大きい蜂が飛び廻って、万一の危険を心配して、現在7ケ年に亘ってこの奉仕作業は一人で続けている訳である。暑い時期でもあり、終るのが大抵午後4時頃までかかった。
 毎年行く度に破損は大きくなり、遂に周囲の塀は、くずれて仕舞い、屋根は落ち、墓前に在った燈篭一対と手水鉢一個は盗難に逢っているのを発見し、町長に事の顛末を知らせ、応急処置をする一方、私は主唱して、この墓を北鴨道隆寺の潜徳院さん北手空地へ移設を提案し、町議会も、これを諒承し町費、自治会、その他の有力者の醵出によって実行に移すことに決議まで出来たが、一部自治会から、お墓の移設は好ましくない。現地で復旧なら賛成するという説が出て、町長も、この説に伏し、現地復旧ということになり、壊れかけの堂は取壊し、土塀の趾にブロック塀を築き、今まで低地で雨水が溜まるので、土盛り整地、これに門をつけ、多度津京極藩の墓所は、見違えるほど立派なものとなって、私の初志は一応成功したものと謂える。墓地復旧記念式を昭和43年10月、この墓地で信濃町長、合田議長その他有力者によって厳粛な供養をした。また、この日、この式後、直ちに、多度津へ帰えり、フエリー接岸広場に、新らしく作ったこの墓のうちの第5代高琢公と明治時代に外港を増築した塩田政之助町長二人の偉業を偲んで、町民らの手によって、前にある写真のような顕彰碑の除幕式を挙行した。
思えば「栄枯盛衰」轉々感無量である。これを以って、わが町の大先覚者京極高琢公、永遠に安らかにお眠り下さいと言いたい。(私の苦労談の一コマ)
 なお、自治会負担の外に、私個人として家中旧士族を説き次の醵金を得て町へ提出した。

     
         総計67000円也 (但し旧多度津藩士族のうち鎌田取纏め分)
         昭和43年6月24日上現金は町教育委員会納了
                   あれ! 2000円足りませんね.間違ったな.

備考
 この旧士族を一軒一軒歴訪して主意を説明し、特に祖祖父時代には殿さんと縁故もあることを説いたが、一部のうちには何らかの意味で、この挙に反対して醵金を断られた旧家臣の重きをなした後継が二・三あったこたは何か考えさせられたものがある。
 この墓地復旧、顕彰碑の建立費は凡そ60万円ほどかかった。

 
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