第二目 多度津世家
 
 さて、多度津藩の始まりは、丸亀藩主京極備中守高豊を父として元禄4年6月23日丸亀で生まれた。幼名を喜内又は内膳と言った。後の京極高道が幼い時の即ち元禄7年6月18日(1694年)1万石を貰って多度津へ分封したのに始まる。まだ小さいので、酒井下総守が、代理として将軍に謁した。
では、1万石の領内とは次のようで、現在なら仲多度・三豊両群に亘る地域
多度郡内では、
 三井郷  多度津村・青木・庄・三井・三白方
 吉原郷  碑殿・山階
 葛原郷  葛原・道福寺・南鴨・北鴨・堀江・新町
三野郡では
 大野郷  上之村
 勝間郷  神田・羽方
 高瀬郷  大見・原・松崎
     計 21ケ村である。
 多度津初代藩主京極高通は、分封したと言っても、直ちに多度津へ、分家して来たのではなく、父の城内に一廓を建てて、多度津藩政は家臣を差し向けて、執行していたのである。2代・3代・4代とつづいて同様に丸亀藩に在ったので、時には前記したように悪い家臣もあって、寛延の百姓騒動まで起こしたのである。このことは、どこかに書いたので、探して見られるよう。
 その後、第5代藩主の高琢の代となって、多度津へ陣屋設置の件について文政10年3月21日附で幕府へ願い出て、許可となり、同年11月に、多度津へ新しい陣屋が出来たが、殿さまはすぐ来ないで、実際に陣屋入りしたのは、同11年6月20日であった。
 当時の陣屋とは、居館2所、倉庫8所、営門3所、鼓楼、学館、馬場、射弓場、調練場などを完備していた。
 この第5代藩主の事績は、何といっても天保年間に巨費を投じて竣工した多度津港(現在の内港の部分)であろう。このことについては、多度津港のおこりの所に書いたので参照されたい。またここでは省略する。
 この第5代藩主は、多度津陣屋で、慶応3年3月22日卒した。享年57才で、在職年数は、27ケ年と歴代藩主中、最も永く藩政を執られた。墓地は、丸亀南條町玄要寺附近に、丸亀藩主の墓地と相隣り合ってある。
 なお、この墓地については、特に筆を改めて誌すことにした。
 第6代藩主京極高典、幼名を於莵之助(おとのすけ)といい、実は高琢の庶弟高賢の次男で、安政4年4月6日世子となったので同5年12月に名を「高典」と改めた。万延元年5月、参勤交代(東観という)し、従五位下壱岐守に敍せられ、後に、河内守、下総守に改められ、元治元年11月東観の途中、京都で天皇に謁し、天盃を賜い、この日から日門警備の命を拝し、12月26日まで、この御門警備に当った。
 明治元年1月19日、多度津藩は土佐・丸亀の3藩連合で高松藩征伐に従軍、多度津藩からは、大目付服部喜之助を総督として先進隊の兵士50人を卒いて、高松藩征伐に行ったが、高松藩はすぐ降参したので1月21日帰藩した。その後、城州、伏見取締の命によって、伏見街道の警備に当ったり、鳥羽口の警備を命ぜられたりした。
 明治2年2月、封土奉還の書を差し出し、同年6月に多度津藩知事に任ぜられ、多度津に帰ってから、藩治職制などの大改革をした。
 明治4年正月に他藩に先んじて解藩の建白書を時の政府に提出した。このことは、ご嘉納となり、多度津藩は廃せられて倉敷県に合せられ、同日依頼多度津藩知事を免ぜられたので、同年4月8日家財を取纏めて、多度津港から汽船・温泉号に積込み、出航して東京に向う途中、同月18日、遠州灘で大暴風に遭い、汽船は沈没し、家財、記録書類など一切を流失したといわれたいる。
 以上、走り書き程度のものとなったが、わが多度津藩は元禄7年6月18日丸亀藩から文封して、第6代京極高典に到って、廃藩となるまでの間、実に6代、175年が多度津のお殿の時代であったのである。
 この子孫は現在、東京に住んでいられる。昭和37年信濃勇町長が上京に際して、東京麻布にある多度津藩主の墓、初代・三代・4代・六代のものを調査依頼したことがある。その後も墓地(丸亀にある2代・5代)の移設について諒解を求めに行って貰ったこともある。
 この京極多度津藩主の墓については後に書くつもりである。私としては特に関係深いので。

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