第二項 多度津藩主京極家 
 
 多度津の殿様を書く前に、どうしても本家丸亀藩から書かないことには辻褄が合わないので、丸亀本家のことを少し述べて、後に本題の多度津藩に及ぼすことにした。

 第一目 丸亀世家
 
 丸亀藩祖として、万治元年2月26日從五位下刑部少輔源高和(幼名を小法師)といい高政の長男が、播磨の龍野から、当丸亀に移封し、西讃に於て5万67石、播磨揖保郡の内の1万石、合計6万67石とした。同年4月を出発して5月に龍野へ帰えり、旧領の内、5万石を幕府へ返還し、残りの1万石は網干に郡奉行を設けて、これに当らせた。5月5日、丸亀に到着、藩政を執る。
 その後、備中守高豊、明暦元年6月26日龍野に生れ、寛文2年12月襲封し、同4年祖母常高の遺續として近江蒲生郡で1400石余を加増され、同9年從五位下、備中守となり、延宝4年7月、封についた。
 越えて、元禄7年4月、帰藩の途中、疱瘡にかかり、播州加古川で卒した。
 同年6月18日第三子、高或は、その後をつぎ、かねて父高豊生前の請によって庶弟(実際は庶兄)高通を、多度津へ分封(分家・新家)させた。
 丸亀藩は、多度津藩に対しては本藩といい、7代212年続いて、廃藩となったのである。

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