17 おかげ詣り 
 
 慶応3年暮(1867年)から、翌4年正月にかけて、全国的、大流行したものに「おかげ詣り」や「ええじゃないか」という一種、幕府に対する長い間のモタモタがようやくガタに近づいて来出した際でもあり、百姓・町人らの一種のデモに匹敵する団体行動で世を挙げて、参加した。
 この事について、例によって多度津藩家臣の富井さんの日記を借りて当時の模様を再生して見ることにした。

慶応3年12月29日
 此節大阪、京初め当方にも、高松・金比羅へ御守札、降り候に付、歳暮に候へとも金比羅社へ参詣多し。惣懸り也

慶応4年正月3日
 旧冬より当時、京、大阪共、御札守天降り惣懸りの由の処、高松、金比羅等へ押移り候処、旧極大晦より、丸亀、当方の御札守降り、市中、昼夜の大躍りと相成り、御上様より「為制禁役方」廻り方、市中徘徊候へ共、中々に相治り不申、散々の事也。
余り大造の事につき、今夜内々見物に行く。賑々敷事也。
これを「おかげおどり」と云う。

同月5日
 暁方より市中躍り見物に行く。今日は家中内にも相降り申候。
 竹内へ金比羅様、御守札御降り有之、案内に付、向も客に行く為、御神酒角樽壱升相贈り申候。

同月10日
 金比羅様へ参詣仕り、自ら本開帳、御守札相請申候。此頃中、金比羅様御出現並ニ処々に御札降り、お蔭参り夥敷く、今日は別して、初十日、且つ年の夜参りに付き、参詣多く、通行もセリ合い、押し合い、一寸歩行也。(以下省略)

(註)
この狂態も、同年、高松藩征伐の声を聞いてから、次第に治まった。要は、一種の群衆心理によるもので、一寸前にも書いたように、永年の圧専政治に対する、デモの種類である。
 この「おかげまいり」といい、「エージャナイカ」は、群衆心理の現われで次から次からと数を増し、乱暴なグループなどは、資産家や大店へ躍り込み、エージャナカエージャナカと躍り乍ら、その家の衣装を取り出して勝手に着込んで躍ったり、ご飯を勝手に食べたり、酒を飲んだり、勝手放題であった。このことについて、取締りの多度津藩でも手を焼いていたことが、この日記の文面にもあるし、家臣の重きをなしていた士でさえ、夜間ひそかに、これを見物に行ったり、藩士の家へ神札降りでお客に行くのに角樽1升持参。全くお可しいものである。

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