8 藩札(紙幣)の発行
 
 昔は何れの藩でも、自由に自分の領鎮内だけでのみ通用する藩札を発行することが出来たのである。
多度津の藩でも、享保17年(1732年)に、1匁札・3分札・5分札・2分札が、多度津南町にある「内田屋」が札元となって、多度津藩の藩札を製造していた。
 この版木は、大阪高麗橋角の細字重兵衛の彫刻になり、現在も内田屋の子孫が保存している。
この紙幣造る所を、「札会所」といい、藩の役人が立会って総勢21人がかりであったという。
 この版木も、翌年3月2日には、多度津銀札場で、銀と引換が始まり、この日だけでも8貫650匁も藩札と引換があったといわれ、版木も1ヶ月も持たず、早やくも大阪へ修繕に出した。
多度津藩でも藩札の乱発によって、藩財政は次第に苦しくなり、福山藩から度々借銀したようで、この藩札も、明治に入ってから、明治4年7月14日の相場を以って、政府発行の紙幣と交換された。
なお、この当時の政府紙幣といっても、当地方では、今の百十四銀行の前身である、第百十四国立銀行から発行されていたのである。
 因みに、多度津藩札に使う紙は、南鴨村に、藩直営の紙漉場があって、ここで藩札用の紙を漉いていた記録も残されている。この南鴨村には清浄な湧水どころで、水質もよいので、ここに紙工場が出来たのであろう

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