2 多度津藩陣屋の敷地
 
 丸亀藩から分封(早く言えば分家して新家をつくること)に先立って、多度津藩となるについては、幕府に申請して、それが許可にならなければならない。この許可がおりて、初めて建築にかかる訳である。
 先づ地所の選定であるが、築城、または、多度津藩のように「陣屋」=(軍陣、軍営のところを云い、城を持たない小名のおる居館)を造るには、築城法によって城・又は陣屋を自ら守るに都合のよい所が先決であることは、言を俟たないことで、多度津藩では、北がすぐ海、南と西には、町を貫流する幅広い桜川が流れ、只、東には何もないので、ここに人工堀を掘って(通常これを蓮掘りといった。この堀は現在では、道路拡張や、宅地造成によって埋立てられて後形もない)
 これで四方からの恐威は防げるという、最も立地条件のよい、私達の現在いる新町の地を選んだ訳である。
 この地を今でも家中と呼び、殆ど取潰されたが、後に述べるところの、お東ご殿・五十間長屋などが昔の面影を少し残している。
 ではこの、多度津藩の陣屋の敷地は、一体どれくらいあったか、記録によって書いて見ると、次の通りである。

  

  計 2町2反5畝14歩7合1勺也 (約2,2ヘクタール)

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