14 学徒動員
 
 大学生は、卒業繰上げ、徴兵猶予の恩典の取消しなどで、殆んどの学生は、学徒出陣(学生制服のまま)応召して戰地におもむいた。
 中学の男女生徒も、直接戰地へは行かないが、学徒勤労奉仕隊として、軍属らと共に軍需工場で、飛行機の部品を作ったり砲弾を磨いたり、箱に詰めたりし、ある学生は、農家に派遣されて食糧増産(米・麦・野菜つくりなど)に從事し、馴れぬ手附きでよくガン張って呉れたものである。
 愈々戰争が激しくなってから、山奥深く軍需物資を格納したり、本土決戰に備えて、防空壕堀りが、隣組単位にまで割り当てられて遠くは汽車で、琴平町のまだ向うの「塩入」という山へ、この壕堀りに行かされたものである。
 無論、各家庭でも、家族数に応じた、小型防空壕を作ることは、これより前に強制的に実施されていたのである。場所は庭先や、縁の下など、各家庭の実情に応じて作っていた。あらゆる点で悪条件ばかり。「一億一心!!勝つまでは何が何でもやり抜きましょう」の合言葉。日夜、各種訓練にヘトヘトになって、病気で倒れる者も次第に多くなって来たのである。
 昭和20年8月15日正午、ああ遂に来るべきものが来た日である。すなわち、日本は完全に敗けたのである。誰しも只、茫然として為すことすら忘れた。そして敗けた悔し涙か、いやな戰争が、これで終ったという嬉し涙か、兎角、両方が一度に両眼から流れ出たのも、つい、この間のように思える。
 戰争とは、いつの時代でも、よいものでない。一方が勝てば、一方は負けるのは当然である。何れにしても尊い命を失うものである。命の外に家は焼かれ、生産はストップ、人々の心は荒れ出し、全く戰争は悲惨の一言に盡きるものである。それに戰争が終ってからの社会情勢の急激な悪化、ヤミ物資、密造等々、全く言葉に示すことが出来ないものであった。
 戰争とは、以上述べた以上に悲惨なものであることを、お互いに胸にたたんで、二度と再び戰争などのない、明るい、楽しくそして平和な國でありますよう祈って止まない。
 こらは、単に日本だけの問題でない。世界共通のことでもある。

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