11 太平洋戰争と私達の生活

 ここでは、この大戰争に関連して、銃後を守る私達の生活の一端だけを示そう。
 何年もつづく戰争で、口だけは「勝つまでは、何が何でもやり抜きます」の合言葉で、極度に乏しくなった主食、衣料品を初めとして、総ての生活必需品が統制下におかれ、切符制度となった。米1人に2合5勺が大人一日分とか、煙草3本が一日分とか、キメ細く決められた。そこには闇商品や、やみ米などが、ひそかに取引きされ、経済警察の目をかすめて、移動禁止の米などを売買したり、配給では足りない煙草などは、椿の葉を葉巻にしたり、桑の葉を乾して細く切って、きざみ煙草の代用にして口を濁したものである。
 主食の米などは予定の2合5勺が2合2勺になったり、遅配・缺配つづきで非農家の私達は、食い延し策として、芋(いも)の時は芋、大根の時は大根に干うどん(配給)を米粒位いに小さく切って混ぜ飯とし、悪い時には、肥料用の大豆粕が主食として配給になったりしたことがある。乳のみ子を持つ母親は乳が出なくなったり、栄養失調症にかかる人も多く出初めた。殆どが、いわゆる闇物資に頼らねば生活が出来なかったのである。まことに苦しい生活の連続であった。
 この局面に矢面に立って、悪いことであるが、背に腹は替えられず、コツコツと物資の買い出しに、重いリックサックを担いで、汽車に乗ったりして遠くまで農家へ行って、米や、芋、野菜などを少しづつ分けて貰って来る主婦達に敬意を表しないではいられないものであった。
 ある判事さんは、闇米など一切口にせずとガン張り通して、遂に餓死したことが新聞に出たこともある。食料事情は極端に悪く、農家の牛馬の飼料に劣るものすら食った。芋の軸、カボチャの黄色い花、田んぼのイナゴ(これは蒸し殺して天日で乾燥しておいて、焼いたり佃煮にして食べたが一寸いける代物であった)。
 それに自給自足の立て前から、庭を掘り起こして畑として、芋や南瓜を作ったり、堤防や川原を開墾して豆、麦、芋などを作ったり、極端なのでは、植木鉢の植木を抜いて燃料とし、その鉢にも芋などを植えていた人もある。
 食料事情については、まだまだ悪い面ばかり沢山あるが、この辺で止める。

 
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