10 日華事変と太平洋戰争 (第二次世界大戦ともいう)
 
 特に本項は書くに忍びないが、意を決して、ここに筆をとるものである。
 即ち昭和12年7月7日、北支盧溝橋事件に端を発し、その後、戰局は次第に悪化して、戰史稀れな太平洋戰争に追い込まれ、日本は日夜、戰前、戰後(銃後ともいう)ともに苦しみ、もがき続け、その結果、昭和20年8月15日正午、天皇自らのラジオ放送によって、日本は全面的に無條件降伏によって、あの忌わしい戰争は終局を告げたのである。

 この戰争は緒戰では、日本が圧倒的に優勢であったが、この緒戰に敗れた米・英は徐々に反撃に出て、彼等のもつ進歩した科学兵器、豊かな経済力によって逐次攻勢に転じ、その為、日本は昭和17年5・6月の珊瑚海々戰・ミッドウエーの海戰で先づ制海・制空権を失い、ついでキスカ・アッツ島の全滅、更にはグワム島・フイリピン・サイパン・硫黄島・沖縄にいた兵士隊の玉砕相つぎ、おまけに国内では、米機の大編隊による波状爆撃で主要都市は殆ど壊滅となり、高松市は昭和20年7月4日早朝からB29の空襲で市の大半が焼失した。 多度津からも真赤な空がよく見えた。この日は蒸し暑かった。
それから8月6日に広島へ原子爆弾投下・8月8日にはソ連から宣戰布告の通達。
 8月9日には長崎へまた原爆投下となり、全く戰力を失った日本は、二進も三進もならなくなり、遂に昭和20年8月15日に、ポツダム宣言を全面的に受入れて、ここに日本は、建国以来はじめて無條件降伏(敗戰)したのである。

 思えば、この大戰争は、昭和12年の日華事変から8ヶ年も、日本は、世界の大国である米英ソを対手として戰いつづけたのであるが、この間、老人・子供・不具の人を除いて男・女とも何らかの軍役につき(徴用令による)軍務に当るものは勿論、戰地に、或は国内にあって奮戰し、不幸敵弾に殪れ、傷つき、または生死不明の者などで未帰還の人々は今もって正確な数字は判らないとされている。
 國敗れたとはいえ、私達は、よい意味に於ける反省と、これら歿くなられた人々のご冥福を祈るとともに、今に異国に生存されているであろう人々の一日も早く帰還するようお祈りするのが、私達の義務でなかろうか。

 昭和45年、この本を書いている時も、已にベトナムで日夜大戰争をしている。
 他国のことながら、如何に事由があろうとも、両者の話し合いで円満に物ごとを解決して、血で血を洗うような忌しい戰争が1日も早くなくなることを願うものである。
 もう 戰争はいやいや。世界中の人々が仲良く手を握り合って楽しく平和な日暮しの出来る日はいつのことか。

「附記」昭和12年の日華事変の際、私は後備役、陸軍歩兵伍長として、中国の上海に上陸して、市街戰・無錫・江寧鎮・蘇州の各々、戰斗に参加し、南京攻略にもかかわり、約1ヶ年中支に転戰して、昭和13年春、無事丸亀の原隊へ凱旋した。その時、功によって勲七等青色桐葉章を下賜された。
この当時としては凱旋勇士として賞め稱えられたものであるが、今考えると面映い話である。

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