4 日露戰役 | ||||
隠忍自重していた日本も遂に明治37年2月10日、対手國たる露西亜に対して戰を宣した。 善通寺師団の精鋭も5月21・2・3日に亘って主力は詫間湾から、その後の部隊は殆ど多度津港から10数回にわたって出陣の途についた。 この時に起こるべくして起きたと思える、あの有名になって一時国定教科書巻7にも搭載されていた「一太郎やーい」の母性愛のシーンのあったことである。 この出陣のわが子を思う尊い母性愛は、昭和6年6月21日、銅像となって桃陵公園の展望台に建てられ、今も、その当時の老母は手を高く差し上げて、吾が愛し子に呼びかけているようである。 かくて、各地に転戰し、当時、東洋に於ける、無双の根拠地であった。旅順港の攻略に参加し、東鶏冠山の戰斗では、悪戰苦闘をつづけ、多大の犠牲者を出したが死屍を打越え進撃・進撃と肉迫し、遂にこれを陥れて、翌38年暮れより同39年始に亘って凱旋して来た。 この戰役で、町は軍人の民宿、湯茶の接待、歓送迎、遺骨の奉迎に、また国債(戰時)割当消化に、町民も苦しかったという。
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