5 多度津小学校
 
 多度津に小学校が出来るまでは、所謂「寺小屋」が数ヶ所にあって、藩士の子弟や、一般の子供を教育していた。但し、これは現在のように義務制でないので、行ってもよいし、行かなくてもよかったのである。
 その後、明治5年に学校令が出て、從来各所にあった寺小屋教育は廃せられて、宝性寺や西方寺を借入れ、同年11月15日から「硯岡小学校」と命名して授業が始まったのである。当時の学科は、英学・読書・綴字・暗記・算術等であった。その後生徒が多くなって来たので、多聞院(女子のみ)、明治8年には男女共学とした。この年、男子139人・女120人計259人であった。
同10年には、須賀町にあった元多度津藩の御藏(ごぐら)を改造して校舎とした。
同12年には、多度津藩の「自明館」を自明館学校と改め、新町村・堀江村の子供をこの分教場で教育していたことがある。
 その後、明治21年1月に現在国鉄多度津工場の処に、校舎を新築して移った。この新校舎工事費は〆て4000円であったという。
 明治44年7月、生徒数の増加によって、枝道にある元、多度津町立の染色学校を分校として使用し、大正5年4月に高等科を併置した。
 その後、大正15年6月に、現在地の栄町に新校舎全部二階建を建て、ここへ移った。この当時の二階建新校舎は、昭和3年に鉄筋造りの大講堂(階下は雨天体操場)は、立派な、施設の整った学校として、他府県からも見学視察に来られた程であった。
 昭和13年6月には、武道場新築、昭和16年4月、国民学校と改められた。
終戰後の昭和22年4月から現在のように、「多度津小学校」となって現在に到っている。
昭和37年7月には、東南隅に立派なプールを新設した。
 その後、次第に老朽化して来た校舎となったので、昭和44年度から逐次、近代的校舎に改築がされつつある。
 多度津町役場改築中、仮庁舎として使用していた、同校内の元幼稚園の二階が昭和45年3月6日夜半、大音響とともに天井が10ヘーホーメートルも落下した。幸い夜半で職員がいなかったのでケガ人は無かった。
 何年か先になるが、やがて、立派な新校舎の出来るのも、そう長くはない。


 多度津小学校は,昭和47年に改築工事が完了し,現在に至っています.昭和62年(1987年)には創立100周年のお祝いをしました.それからでも,ざっと20年,多度津小学校は古い歴史をもっているんですね.

大正期に建てられた校舎 現在の多度津小学校

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