4 多度津の役場

 明治11年頃はまだ多度津村といい、戸長役場が川端にあった。
 その後、明治23年2月15日に町村制が出来て、初めて多度津町となったので同年5月17日に、ここから仲ノ町の多聞院を借りてここに移って一般事務をとっていた。同29年に大通町(現在国鉄多度津工場正門前、つい先般まで多度津消防署、これは45年3月10日道路拡張により取り壊した)に洋風木造二階建の新庁舎へ移転した。
 明治43年には小学校の教室となり、役場は今の国鉄予讃線西踏切附近にあった元染色学校跡へ移り、その後、摩尼院、そして又元の庁舎へ移った。
 その後、大正8年4月6日に、元讃岐鉄道の多度津駅本社の建物(現在国鉄多度津工場の鉄道分院附近にあった)を、買収して、豊津橋東側に、大きく内部の改造を施して移築した。当時としては、洋風木造の二階建のスマートな建物として、人の目を引いた。
 この築工中の大正7年8月29日、大暴風で、折角く木組の終ったこの建物は、一夜のうちに崩れ落ちてしまった。私の小学校時代のことであった。後かたづけ、改修などして、やっと4月6日に、大通町から引越して来たのである。
 それから、建増し、改修はあったが、昭和45年まで、この庁舎で地方行政事務が執行されていたのである。私もこの役場に籍くこと約20年定年退職したのであるが、私がこの役場に就職した当時の服装は、羽織・袴で執務したものである。これは昭和15・6年での話である。
 洋服を着るのは町長が三大節・学校の卒業式位いであって、吏員らの中には殆どが服など作ってないのが常識位であったものである。
 余談に亘ったが、この古い庁舎の電話室などは、多度津駅当時の切符売場をそのまま電話室にしてあった。
 この役場庁舎も古くなったり、合併によって、脹れ上った職員・事務などで狭くなったので、改築することになり昭和44年暮から全部を取除き、敷地の拡張をし、五階地下一階、エレベーター附きの鉄筋コンクリートの新庁舎が鹿島建設の手で着々と進められ、45年10月迄に竣工する予定で、小さい町としては、立派過ぎる程の新庁舎も今は、時間の問題程に進んでいる。


大正期に建てられた町役場 現在の町役場


 
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