2 斬髪令出る
 
 徳川300年の幕政も、国内外の諸情勢には抗しきれず、大政奉還となり、明治の御代となって、日本は夜明の光がさして来た。所謂文明開化といって、何でもが外国崇拝舶来万能時代となった。
一例が食生活に牛肉を取り入れたり、佩刀を禁じたり、世相は一変した。
 この時代までは、武士も町人、百姓も、それぞれ髪型は、武士はTVでよく見られるようなチョン髷、町人は町人まげ等と、髪格好で区分が出来ていたものである。
 これが明治になって、次のような、お布告が出て、国民は一様に、今までのチョンまげを切って丸刈か、ハイカラ(長くして二つにわけることを云う)にすることになった。然し、泣く泣く髪を斬った者もあり、また何とか言い訳で、手拭をいつも頭にかぶって、かくし通した人もあったと言う。私の知る範囲では、大正8・9年になっても、白髪頭に鼠のシッポ程のチョンまげを結んで乗せていた宮本の石屋の隠居、丈六墓地の墓守りの久兵衛などを覚えている。
 ご時勢とはいい乍ら、長年の慣習であった、チョンまげは、このお布告によってピリオドを打った訳である。
 当時のお布告(おふれ)には次のように書かれてあった。

第八十八号布告
本郡往古ハ人民総髪ノ風俗タル所、世、変シテ剃髪束髪ノ冠謂ヲ廃ス 以来、其ノ弊風ヲ今日マデ守リテ、禮ヲ害スルヲ知ラズ思ハサルノ甚シキナリ
今ヤ物理大ニ廃而既ニ今般上布ノ通リ上下一般服制ヲ一変セラレ頭ニ帽ヲ載クノ義アルハ從来ノ姿ニシテハ其ノ体裁相立難ク近日一定ノ公布アルベケレドモ、命ヲ得テ後ニ改ムルハ無智トイフベシ
何茂篤ト人心愛護ノ理ヲ解シ時勢ヲ察シ向後剃頭束髪ヲ廃シ公方ヲ体認候事
 上之通リ各区内ニ洩レナク懇諭可致候事
  11月28日
    香川県参事  中村貫一

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