第二目 学校・官庁・その他
 1 昔の警察制度
 
 警察制度は、遠く北條時代に「唐」の書物に基いて作られていたと言われ、その後、徳川時代に、今の警察制度の根幹をなしていたと言える。 
 すなわち、幕府に於ては「大目付」(おおめつけ)、目付(めつけ)、町奉行(まちぶぎょう)、その下に「與力・同心」、町年寄、町役人、番人、名主、年寄、五人組、書役、町年寄、牢屋同心、牢屋番などで、直接・間接に、上は大小名から、下は町民、百姓に至るまで、偵察・監視・検挙していた。
またこの手先として、「火付け、盗賊改め」などがあった。

 多度津藩では、大体次のような機構で治安維持に当っていたようである。
 大目付二人=今の警視級、その下に下目付五人、町廻り四人、この外に「目明し」三人であった。
これは主として町内で、村落については、群奉行・代官・郷手代は藩士がこれになり、庄屋、五人頭は農民より採用していた。この当時の警察制度として、犯罪人が他領へ逃げ込むと、無罪となり、これを追求出来なかったのである。

 多度津藩でも毎年二人位い斬首があったと言う。この刑の執行は極月ノ二十日で、人々はこれを俗に「果の廿日」(はてのはつか)と言い、忌み嫌われていた。
 この処刑は、白方の土壇(崖下より600米位西の海岸ぶちをいう)に引き据え、足軽が斬った。見物は勝手次第で、首には、悪札を立て、10日位、曝しものにしていたという。
 盗賊の軽罪の者は、摩尼院で百とか三百とかの笞刑をした。
 賭博(ばくち)は30日から50日入牢。姦通の男は入牢。女は腰巻一つで川端(鶴橋)に20日位い、毎朝連れて行き、夕方連れ帰えって、一般の人々に見せたと言う。
 なお昔の処刑には大略次のようなものがあった。
一、 鋸引=引廻し、両肩に刀目を入れ竹鋸で引く。
一、 磔(はりつけ) 一、 獄門(ごくもん) 一、 火罪(ひあぶり) 一、 斬罪など
一、 晒(さらし)  一、 遠島       一、 重追放      一、 軽追放

多度津警察署庁舎
 明治21年までは、民家や寺院を次々と移っていた。その後、町の中央部の(現在赤カベ薬局前十字路の一角)民有地を借りて、庁舎を建てた。その後、昭和11年1月22日に、栄町(駅前通り)に、二階建洋風の庁舎を新築して、中ノ町より移転、現在に到っている。

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