4 終戰当時の多度津港

 太平洋戰争時に於ける多度津港のことは前に書いたので、一部重複する処があるかも知れないが、ここでは私の12〜3年も港務所長として勤務していたので、特に一項を設けて、終戰当時の出来事で、前に書き落したものを書き綴ることにした。

 忘れもしない、戰争の終った直後の昭和20年9月15日昼前に、真白に塗り上げたスマートな見馴れない汽船が桟橋に横付けとなったので、よく見ると、星条旗がマストに高く揚げてあるでないか。
 私は、職務柄、桟橋へ出て、手真似、身振りの程度で入港目的を訊いたら、善通寺へ進駐した部隊へ連絡に来たとのことでやっと安心した。何分、戰争が終って30日目、定期船もまだ全部缺航していた最中のことで、附近住民も不安がっていた。要件が終って、船長が私に来るようにとのことで、単独で訪れた。そしたらオースタリヤのビール、チーズ、干ぶどうの入った大きいパンなどで接待をうけた。一寸こわい気持もこの際、あったが特別歓待され、下船に際して、香り高い本場コーヒを2リットルも作って呉れ、近所の人々に上げたり、何年ぶりかで鱈腹頂戴した。
 その後、9月27日に米軍が善通寺師団の火薬庫にあった砲弾を毎日、大型トラックに満載して来て、東防波堤から港内に投棄したので、見る見る港内は、この砲弾で埋り出したので危険もあり心配して所属の通訳に、どこか他所へ処分するよう話した結果、それからは、港の沖合・高見島との中間の深い処へ機帆船を徴発して投棄した。燃料缺乏の時でもあったので、港内投棄の弾薬は、誰となく引上げて、木箱を壊し、砲弾の火薬を抜いて燃料代りにしたり、勿論木箱も燃料としたのであるが、過って腕を飛したり、大ケガをした人も多くあった。今考えると、無謀この上もないことであったと思う。
 越えて、昭和20年10月頃から、米軍に引き渡すべき、陸軍上陸用舟艇250隻(このうち大半が木造船)戰時規格型といって、極度に切り詰めた計算に立って作った、子供だまし位いのエンジン附の船であった。よくこれで輸送途中で兵隊を乗せて沈まなかったものだと思った。
 この接収される上陸舟艇が、土庄部隊や、その他の部隊から続々曳航されて合計250余隻が引渡し港と指定された。多度津の港に集結した、この舟艇は内港一文字を中心として接岸し残留の部隊が日夜、員数を監視し乍ら引渡しの来る日を何日も待っているとき、台風が来て、もやい綱は切れ、舟と舟が接触して大、中破し、港内一杯にその破片が浮いて、収拾つかなくなったので、再度善通寺の進駐軍に善処方を要求に、県の通譯と私が行く手筈にしていたが、その日になっても県から来ないし、米軍ジープが迎えに来て待ってるので遂に私一人で米軍方へそのジープで行ったのである。(このことは書いたのでここでは略する)

 さて、この舟艇処分については、町に一任するから適当にせよ、技術員は米側より差出すということになり、その翌日から米技術将校らが現地へ来て、この舟艇を大体10隻位いづつまとめて、マッチ箱大の火薬を取りつけ、導火線によって一度に爆破したのである。水煙は10m以上に立ち上り、木片、鉄片は沖天高く吹き飛ばされ、落下物や爆風で近隣の屋根や、ガラスはメチャメチャとなった家が出た。この爆破作業は昭和21年12月17日から7日間、毎日行われたのである。
 この爆破に先立って、多度津町として初めて米軍から避難命令が出されたのである。港に通じる東浜町では臨港鉄道以北の全住民、西浜海岸線の住人も同様、避難先は、多聞院、小学校などを当てられた。從って通行一切禁止、米軍の将兵、日本の警察官、それと港湾管理の私らと僅かの人のみが、この爆破現場にいたのである。戰争に経験のある私でも、そのすざましかった光景は今でも忘れられない。
 その後、新しく出来た海上自衛隊の手で掃海作業が長期間に亘って実施されたので昭和23年5月21日午前10時、関西汽船の大型新造船「ひかり丸」「さくら丸」何れも1000トン級が戰後はじめて多度津桟橋に横付けとなった。この日から多度津一阪神は、一便制が毎日二便制となって大変便利になった。水島、福山、志々、粟島、六島などの各航路も復活して、多度津港は一躍有名となった。
ヤミ物資の輸送に汽車より汽船の方が楽な点もあって、盛んに米・麦・焼酎(密造)が、当時の経済警察の目をかすめて、船内へ隠した。偶々発見されると押収され処罰されるのであるが、警察官とヤミ屋の葛藤は深刻なもので、特に三国人にかかっては、当時、目に余るものがあって、警察官を何人も海の中へ突き落したりしたものである。
 日時は忘れたが、この頃であったと思う。客船の「女王丸」が多度津を出帆して次の寄港地「家島」へ入港に際して、まだ瀬戸内海には戰時中、日本が仕掛けてあった「機雷」に当って沈没した大事故があった。当時乗客のうち、私の近所の三谷さん宅の娘さんは即死した。和田岩五郎さん(元親類の人)は沈む時に、木片に靴や鞄を乗せて、渦から逃れ出て助かった。大勢の死傷者が出た大事故であった。

 次の一首は私の高小卒直後位いであったかの際、何かの本の懸賞募集に当選したものであると、小学時代別れたきりの岐阜県に住む旧友・小里豊秋君から、お前の当選した短歌が出て来たので報すといって来たもので、本人すら忘れていたものである。多度津の町の有様を、よく15・6才の時に一首にまとめたものと思う。
 この歌が、私の小学時代のほんとうの港であり、多度津であったと思う。
 
    きりきりと 帆を張る音に
      わが町の 朝は静かに明けゆけるかも
                      15・6才頃の拙作也


     
          父が勤めた港務所

 
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