第六節 昔の思い出で
 第一項 港・会社・官庁など
  第一目 みなと
   1 多度津港のおこりと思い出で
 
 多度津という所は、前にも一寸書いたように、多くの人々が渡る津ともいわれ、遠く、奈良時代(750年頃)に、現在の港より、千米位い東の堀江浦に豪族の和気氏が港(多分波止場?)を築いたとあり、後には、ここより便利な桜川の下流辺が立地條件にも適しているので、この河口が利用されるようになって、その後、多度津のお殿さまが天保5年(1833年)から5ヶ年の歳月と、当時の金で6200余両という大金をつぎ込んで、現在の内港の部分を完成した。
 当時の記録によると、港の大きさは、「東方突堤長さ118間、北より折れて西に向う。
西突堤長さ70間、東北に延ぶ。中央に110間の防波堤を設け、その両端の2ケ所に港門を設く。
この堤防の幅、何れも3間半、港の内方160間。水深2仭3尺にして、この工事費、実に6200余両」と、あって、いかにこの当時としては大工事であったか判る。また、この港(湛浦・たんぽ)の完成によって、中国・九州・阪神は勿論、江戸方面から金比羅詣りや、善通寺へ参詣の船客や、諸国の物産中継港として、瀬戸内海屈指の良港となった。まだこの当時は、高松にも、坂出にも港らしい港は出来ていなかったのである。
 その後、大型汽船が寄港するようになったので、殿様が作った港では小さくなって来たので、明治
40年1月から今、フエリーが発着している(外港と言う)を新しく作る工事を、当時の町長・塩田政之助さんが計画して、これを実行に移した。工事は着々と進んで完成直前の同41年11月大暴風で一夜のうちに突堤も埋立地も浚い込まれて、あと形も無くなったのである。只茫然として、変り果てた港を見るのみであった。
 町長はじめ、関係者、それに町民一同は、この時こそと決然として立ち上り復興のため、莫大な追加予算を計上して、日夜復旧に突貫工事で進んだのである。そして遂に多年懸案であった外港を明治44年11月20日完成した。これに要した費用、港面積は、下の通り。
 工 事 費  38万5568円9銭1厘
 工事種類  突堤・溝梁・桟橋・埋立・道路・橋・荷揚場
 工事期間  明治40年1月14日着工 同44年11月20日竣工
 工事内容  1 港内面積 40,199坪 
       2 浚渫面積 12,269坪
       3 荷揚げ場 699.6坪
       4 埋 立 地 7954.57坪
 この港の完成によって、香川県では高松港についで第2番目に、重要港の性質あるものとして、時の内務省から「指定港湾」として指定された。港の條件は揃い、次第に船舶や船客は増加し続け、西讃第一の良港として知られるようになった。

 特に思い出で深いものに、太平洋戦争が苛酷になるころ、この港湾施設は海軍に全部使われ、小型潜水艦などの基地となり、酷使につぐ酷使で、施設は荒れ放題となり、昭和20年高松空襲と前後して、繋留中の軍艦からB29を高射砲で撃ったが、一発も命中しないばかりか、その弾片が町内に落下してケガ人が出たり、屋根をブチ抜いたりの大被害をうけたことである。
 同年8月15日の終戰、それからが又大変、進駐軍の船舶が相ついで入港し、この港附近の民家へ上り込み、衣類・帯・こし巻など女ものを持ち出して嬉々としていたり、早や、この時、アバズレ女=パンパンがぞろぞろ黒人兵(豪洲が多い)と肩を組んだり、キッスしたり、貰った赤い口紅を真赤に塗りたくったりして、昨日までのあの苦しみ抜いた戰争のことなど忘れたように遊びほうけていた。
 港内には、進駐軍へ引渡すべき、旧日本陸軍の上陸用舟艇が「土庄」その他の部隊から続々と曳航して、この多度津港に集結したのである。実質的には、この舟艇は使用価値のない、ベニヤ板細工のもので、米軍は一度に10隻宛同時に海上爆破して仕舞ったのである。
 それから善通寺師団にあった莫大な砲弾をトラックに満載して来て、この港内へ投棄したので、見る見る港内は浅くなり、且つ危険この上もないので、この終戰から、この港の取締りに当っていた私は、善通寺にいる進駐軍本部へ、単身、町長の命をうけ爆破舟艇の清掃処理と弾薬投棄中止について話に行った。初めて米軍のジープに乗っていったので、皆が「鎌田さん」がジープで連れて行かれたと心配したそうである。
 本部では銃剣をつけたMPに連れられて、応接に通され、ここで片言や、手真似で上記の件を頼んだところ、即座にOKの諒解を得て、予期通り順調に終戰処理が出来たことを今以って私はいささか誇としている次第である。この港に所長として勤めること前後13年になる私。その後、退職したが、度々改修工事はつづけられ、最近では昭和40年8月、鞆←→多度津に、フエリー接岸施設を設け、中国との距離を短め、便利となっている。
 以上概略に過ぎないが、近々この港周辺の大々的、埋立工事(60万坪ともいわれている)が計画されているやに聞き及ぶ。「番ノ洲」に匹敵する大工事で、ここに大工場誘致が立案されているという。
将来を負う、若い人々よ、昔から港あっての多度津であったことを思い浮べて、今からよく研究して、何とか、益々利用価値のある大多度津港として欲しいものである。

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