12 明治6年の百姓騒動 (多度津鶴橋附近で)

  事のおこりは、明治5年に、初めて日本に徴兵令が発布された時、一部の人々の間に、若い男を引っぱり出して、生血を取るというデマが盛んになり、香川県でも、各地にこの声に呼応して、益々盛んとなり、中でも西讃地方の三野郡・下高野に暴徒化した農民達が蜂起して、道々寺や、元の庄屋宅で常々よく思われていない家などに火を放して焼き拂い益々勢を得て、遂に多度津にまで押し寄せて来た。
事態は益々悪化し、丸亀からも旧藩士らも馳せつけ、多度津も同様に出て警戒に当っていたが、遂に暴徒は、二つ橋・鶴橋の線に押し迫って来たので、当地の羅卒(巡査に同じ)後藤某が、仲仕達を督励して、銃を放って威嚇射撃をしたので暴徒は退散したという。聞き伝えによると、この時活躍した剣客林某という人の刀は鋸になる程、多くの暴徒を切り殺したという。
 この日は、明治6年6月3日で、半夏生(はんげの日)という。

 (この項は、原書では第六節に記載されているものである。)

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