10 アメリカへ初めて行った多度津の人々
 
 多度津の沖合にある、小さい島々を総稱して、塩飽七島と呼ぶ。
この塩飽七島は、昔、海上警備に功労があったので、織田信長からも、泉州堺港に出入する、この島の船に限って「触れ掛り」と言って、特典が與えられ、次いで豊臣秀吉から、この塩飽島民605人を、豊臣方の舟方に任じ、瀬戸内海の海上取締りのような仕事をさせ、塩飽全島の物成高1250石の地を無償で与えるという「朱印書」を賜うた。これは天正18年2月晦日で、これら貴重な文書は現在、七島会議によって、丸亀市文化財保護委員に託され、同市本島にある元、勤番所の石室に格納されている。
 詳しい研究や、文献は相当あるので、これから研究して見るのもよかろう。
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ここでは、その島民(人名・にんみょうという)大名(だいみょう)小名(しょうみょう)につぐに、人名だと島民は今でもいう。
のうち、わが多度津から日本で初めて、アメリカへ咸臨丸(かんりんまる)という幕府の船に水夫(かこ)よして乗組んだ若人が二人ある。
そのことについてのみ、少し書いて見ることにした。

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