8 借耕牛(かりこうし)  (仲多度郡琴平以北)
 
 現在のように、耕うん機などのなかった、昔の昔、その昔、丁度、今から50年にもなるか、大正中期頃までの話である。
 これは主に琴平町から北部の大抵の農家は、この(かりこ牛)を飼って田の代掻きや、田畑を耕したり、処では砂糖〆の臼を廻す動力代に利用したものである。
 この借耕牛(かりこうし)の取引は何時ごろ初められたかは詳かでないが、相当古くから行われていたらしい。
 これは、阿波には牛が沢山飼われていたが、讃岐(香川県西讃地方)には、これが少かった。
そこで、或る期間中、牛の貸借をするようになったもので、阿波の人と讃岐の人で、その日を定め、そして定められた日にその場所へ行って、子牛を「さぬきの人」は貸して貰う。連れて帰えって、自分の牛のように大事に育てて、役に立つようになると、田んぼの仕事をさせる。そして秋の取入れも終って一寸暇になる農閑時の、これ又、両方で定めた日に、借りた場所へ牛を曳いていって、お礼をして牛を渡し、チョンチョンと手を打って、貸借は帳消しになるしきたりで、まことに、なごやかなものであったそうだ。
 阿波の牛を貸した人は「なんぼか大きくなって、有難う」と礼を言い、借りた讃岐の人は、「お蔭さんで助かりました」と言って、牛の鼻づらを撫ぜてやる。牛を中にして人と人との交渉であるが、牛を返して帰るときなど別れがつろうて涙が出たもんだと80才代の年寄りは語って呉れた。
 借賃としては不用で、返えすときに塩鱒や、生魚などを附けてやる位いとのことで、要は長い間、飼育する代りに、自家用の耕作に預かっている間、使用する條件である。
 別にこれについて証文のようなものは、やり取りしない。
 只毎年のことで顔と顔の信用貸借ともいえるまことにのんびりしたものであったそうだ。
 そして、この牛を借りる日も、返えす日も、またその場所も一定していたので、堀江部落辺の人は、その日に、琴平の奥、阿波と讃岐の境辺にある「塩入」という処が指定の場所で、阿波の人は、その日までに猪鼻峠を越して、テクテクと子牛を曳いて、この「塩入」まで来て待っていたのである。
今はもう全くこの制度は見られない。面白いやり方であった。

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