第三項 社会の今昔 1 将軍鹿苑院殿 足利義満 多度津へ上陸する |
康應元年(1389年)後亀山天皇の時、将軍足利義満は厳島参詣のため3月4日夜、都を出帆、海路宮島へ向う途中、大暴風に遭い、多度津沖の佐柳島に避難した。どうしたことか、さしもの大風も早く凪いだので、それから、この島は早凪(さなぎ)と呼ぶようになったと伝えられる。 厳島参詣が終んで、再び海路を帰国の際、多度津へ上陸して陸路を徒歩で鵜足津(宇多津のこと)に向われた記録が残されている。 その概略は次の通り 康應元年3月4日夜深く都を出させ給う。6日御舟にて牛窓に至りぬ・・・。 讃岐の国にもなりぬ、やつまという島あり(屋島)此島は人の家の睦まきに似たる故云うとなり。 二面というこじまも侍り、松かえなとおひたりなとやこのてかしはのなかるらむと覚ゆ、おひ風ことの外にはけしくてたたつ(多度津)といひて、うたつ(宇多津)より南なる浦に御舟をよせて、あからせ給ふ。 御むかへとて馬はあれども、かちよりなきさのひかたにそひて歩ませ給ふ。二里はかりあゆませ給ひけり。酉の時はかりにそいたらせ給ひし此西北のかたに見えたる山は、かのさぬきの院のおはしましけむ、松山しろみねなと云めり。 以上 |
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