2 大昔の多度津附近の地形  (推定による)
 

 大昔は、白方の方にある弘田川・現在の桜川、この二つの川巾は今の何十倍もあって、この二つの川は東西から深く入江をして、丁度、多度津山一帯の地はこの二川に挟まれたような格構で、一寸見ると島のようであったことが考えられる。又山麓には洲が方々にあって葦などが茂っていたであろう。
 その後、幾千年もの間に土地が沈んだり、また高くなるなどのことがあって、この二つの川は次第に狭くなって、多度津山は陸地と連なったのでなかろうか。
 今の桜川の下流は広い川幅があったので、当時、已に天然の港を形ち造っていたようである。
この当時人家は僅か18軒であったと伝えられている。
 また後にも一寸書いてあるが、堀江の弘浜八幡宮の浦手も「讃陽網目」によると「ここ只砂磯なるに海中に出張ること夥し、東は乃生岬、西は箱岬を見通す。・・・ここに地藏尊を安置す旁々もって名高し」とあるように、実測によると今の海岸から600mも沖へ出ないと、この両岬は見通せないほど、砂磯が海の方へ突き出ていたらしい。
これも、長い年月の間に、波や風に侵かされたのか、全く潰え去って後形もないように、地形、地勢も長い年月の間には変って行く。お互いに研究したいものである。


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