19 危祝(やく祝い)


 これは危年(やくとし)と言って、一般には1・4・7・10・13・16・17・22・25・28・40・42・46・49・52・55・58・61を言うがそのうち大危(たいやく)としては、普通男42才、女33才としているようである。
この年頃が一番男女とも成熟した域に達する年齢とされ、また從って、無理をしたりする事の多い年齢で、身体をこわしたり、思想的にも悩む、尾を曳いて大病ともなることも間々ある。
そこでこれを一概に迷信とのみ片附ける訳にも行かない。
自粛の意味も含まれている。所謂、昔の「生活の知恵」のあらわれでも無かろうか。
さて、この附近で通常、否、一部で今も行われている危祝とはどんなものか。
 昔から、男42・女33を「危く年(やくとし)」と言い。また61才にも危年になるが、今でも一部の人々の間では昔に劣らぬハデな危祝いをするようになって来た。
まず、前危(まいやく)と言って、男女ともこの年に達する前年に「受取り危」として金比羅さんや、最近では、徳島県の日和佐の薬王寺へ詣って来る。
 さて、本危く(ほんやく)ともなれば、親戚や知人から米俵や酒などを、お歓びとして、続々と運び込み、顔の広い人などでは、この米俵が何十俵も庭に積み重ねられ、一俵一俵に飾り熨斗・板札に名前を書いたものを着けて、仲々見事なものである。
さて、当日ともなると、大盤振舞の盛宴が始まり、夜が明けるまでドンチャン騒ぎが続く。
 夜が更けて来た頃、危年のご本人は紋付・袴に白緒の草履(藁で作る・白紙で緒を巻く)を履いて、氏神さんへお詣りに行く。
 このとき、供人を一人連れて行く。供人は大根一本と包丁、それに履き替用の下駄一足を持って、ついて行く。
 危拂い祈願の済んだご本人は、社前の鳥居の根元で大根を自分の年だけの数に切って藁スベに通し、履いていた白紙緒の草履はここで脱いで花緒の片側だけ切り離して、「二度と履けない」と言うことにし、供人が差出す新しい下駄と履き替えて、家へ帰る。
 但し、後をふり返って見たり、話をしてはならない。これに反すると一切が水の泡となって、何にもならんと言う。
 帰えって又、大宴会が夜の明けるまで続く。
また女の危祝は、普通これ程ではないが似たり寄ったりで、一般的には里方の嫁入先の母親らが、新しい着物を危祝として贈る風習が今もある。

  
     厄祝いの歓び俵(グラフたどつ)

 やくを「危」と表すのは誤りで正しくは「厄」であるが,本文のままに「危」を用いた.
 私はここにいう本厄をやったことはないが,20年ぐらい前に,従弟の本厄に招かれ,共人の役目を仰せつかったことがある.よっぴてどんちゃん騒ぎの中,深夜,従弟に連れ添って氏神様にお参りに行った.そのとき,大根や包丁をもっていったかどうか定かではないが,新しい下駄をもってついていった.教えられた通り,道中,無言であるとか振り返らないということは守ったことが思い出される.


 
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