32 伝説の佳人 横尾時蔭  (白方)
 

 後醍醐帝が隠岐国から還幸して政を採られた頃にあったと伝えられる。
伊予国の河野備後守通治が内奏したのが天皇の叡慮に叶い、豊原太夫将盛兼秋を勅使として伊予へ渡った際、旧8月15日に白瀉(しらかた)屏風ケ浦に船を着けた。明月に見取れて、兼秋は持って来ていた琴を出して彈じていたが、急に音色が変って一弦が切れた。兼秋思うに、秘曲を彈いている時、ひそかに聞く人があると弦が切れるという話を聞いていたので、早速その辺を探して見ると向岸に一人、人がじっと立っていたので、兼秋は咎めて見ると「今はからず珍しい曲の琴彈が聞えたので、ここで聞きとれていた」と答えので「それでは今のは何の曲であるか」「あれは東漢以上の音で、南宮詩の後詠転、四帖の曲です」と答えた。「この曲は、わが家より外に伝わる筈はない」と船に招じ、改めてまた一曲を彈いた。色々と話し会い、兼秋はその人の名前を聞いた処、「われ横尾時蔭」と答えて、「私の父は大和介と云い、天王寺に居て八幡太郎殿から琵琶の伝を授かったが、世を憂えて、この地に流れ来ている」とのことで、ここで歌弦を通して兄弟の約束をした。この時、時蔭は「私は鵜足郡山中村にいるのでお出になるよう」進めたが、今は勅使の大任の身なので後日を約して別れた。
 そして翌年の同じ8月15日、兼秋はここへ来て琴を彈した処、音が哀愁を帯びて来たので、何か悲しい予感に打たれたので、翌日、かねて聞いていた家を訪れると一人の老人が出て来たので、「時蔭という人はお出でになりませんか」と聞くと、この老人はハラハラと泪を流して「それは私の子です」と答えた。これを聞いた兼秋は驚いてそのあまり失神した。從者が助け起した。彼の老人は「さては、あなたが兼秋殿ですか、伜から詳しく承っています。あの時、頂いたお金で衣など作ってやりましたが、専心音楽に身を入れたためか命が尽きて逝くなったので、あなたと初めてお逢した所へ葬りました。今日はその百か日に当りますので、今から墓詣りに行く処です」と答えたので、兼秋も「では私も一緒にお詣りします」と二人は連れ立って墓へ詣り、墓前で琴一曲「この秋を昔になして人もかなはりしれぬ雲かくれ新らしつかのかげ音もなし」「たよりもしらぬこの山中に我ふりすてて一声はかりそれかとぞ聞く呼る鳥」を奏した。老人は今一度家へと乞うたが「一度都へ帰えって考えてから又参ります」と別れて都へ帰えり、その後、再び老人を訪れ、時蔭に代って、この老人を父として孝行に励んだという物語りである。
なお横尾時蔭の墓と伝えられるものが多度津町白方に現存している。


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