14 家中天神さんと雨乞い
 
 多度津、新町と、富士見町(昔は出来町という)の氏神で約三百十数戸を擁している。
この天神さんは、こんな話を古老はよくして呉れた。
 何でも昔のこと、堀江村(隣り村)に鎮座していた天神さんを、新町の若い衆が盗んで来てお祀していたのを知った堀江の若衆達が怒って、取かへしに来て、天神さんを背に負って帰えろうとしたが、どうしたことか、とても重くなって「よう背負えん」と云って、放り出して帰えったので、また元のところへお祀りしたと言うが、その眞偽はわからないが、多分、堀江に今も祀られている天神さんの御分身でなかろうかと考えられる。
 さて、この天神さんについては、私の父、栄祐、つづいて私と、親子二代に渡って氏子総代をつとめているので、そのうち知り得たものの中で、京極藩主と信仰、菅原道真の雨乞いなど二っ三っ誌してみると、次のようなものである。

多度津京極藩と天神さん
 この家中天神さんは、多度津のお殿さんのお膝元、家中に鎮座している関係もありお殿さんは、この天神さんを崇敬されること篤く、正、五、九月大祭などにはお使の士を差遣(さしつかわ)して、代参させたり、神饌を献じ、今も社前に残る「菱四ツ目」の家紋入りの春日灯篭壱対(文化八年の銘あり)その他、家臣が江戸表より送って来た幕などがあったが、これは破れてしまって、今はもう無い。

家中天神さんで雨乞踊り
 丸亀藩主が家臣に命じて作らせた、村々の事がらを調べた古い本(現本)は現在丸亀城内の資料館に保存されている。この本の中につぎのような事が書かれてある。この本の題名は「西讃府誌」という。
「文政六年四月より六月ニ至り雨ナクシテ秧ヲ移スコト能ハズ此祠ニ於テ雨ヲ祈ルコト三日、三井、葛原ノ二郷ノミ大雨アリ」と。
(註)この雨乞いの結果から見ると、大夕立かとも思われるが、この二郷は二村のことでなく、四箇、白方、豊原、多度津といった広範囲の地区のことである。

家中天神の子供相撲
終戰になるまでは、例年の通り、お祭の余興として子供の奉納相撲が境内で盛んに行なわれていた。熱狂して来ると、しまいには大人まで飛び出したりし、そのあげく、ケンカになったりしたので、止めることにした。
 最盛期の頃には、聞き伝えて、一時は遠方の大人や、善通寺師団の兵隊さんまで来て、飛び入り相撲で賑っていたことがある。


家中天満宮 天神さんといえばうし


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