13 熊手八幡宮  旧社格郷社
 
 多度津市街地の西方2,5km・西白方部落に広大な神域をもつ古社である。多度津町のうち、家中を除く全地区と東・西白方、奥、見立、四箇地区に亘る広範囲の氏神である。
 祭神は応神天皇・神功皇后・比売神の三神を祀る。この社に伝はるというに、昔、神功皇后が三韓征伐のご帰途、風波の難をこの地に一時避けられた。
風もおさまり、波も静かになって、ご出船に際し、旗・熊手(兵器の一種である鉄製)を止め置かれた。村人はこれを祀って、熊手八幡と呼ぶようになったと伝えられている。
現在も、社宝として、御熊手壱点・御旗壱旒、それと「八幡大菩薩」の扁額(嵯峨天皇のご辰筆)がある。

 この熊手八幡宮について、昔の大祭の模様や終戰から現在に到る行事などは大略次の通り。
昭和20年8月15日の終戰になるまでは、この八幡さんは、郷社の社格を有し、香川県より神饌・幣帛料供進神社に指定されていた。然しこの終戰によって、これら特別恩典は全く占領政策に基き廃止され、現在では一般の神社も同じである社団法人宗教となっている。
華かであった時代のお祭り風景を思いつくまま書いて見よう。
 但し、こらは前にも言ったように、華かな時代の昔物語りでしかない。
この八幡さんは前述のように昔は、一町二か村の産土神として崇敬されていた。したがって、秋の大祭ともなると、頭屋組・若衆組・子供組が各部落毎に出て、その準備や、何かと毎日、毎夜相談や、獅子つかいの練習が続いて、並大抵でなかったようである。またこの準備や、大祭行列の順位などで、昔から度々悶着もあったと聞かされている。
 さて、諸準備万端整い、今日は多度津・須賀の金比羅さんへ御輿渡御の日、県庁から、衣冠装束の偉い役人がお出でになり、村々の総代・有志・若衆組の獅子が早朝から社前に集まって来る。
 この大祭に、堀江からも特に鳥毛組が行列に参加することになっていた。
大祭は予定の通り、先づ行列となると、露拂い、金棒曳き、堀江の鳥毛、挟み箱、氏子総代、つぎに県庁から知事(大抵は課長級が代理)神官、この両者は乗馬。
神輿、供人がこれに続き、恰も一幅の昔の絵巻物を見るような美しさであった。
 お年寄りなどは、土下座して柏手を打って、おがむ者、お賽銭を投げる者もある。
お通り筋の町内では笹竹を立て、〆縄を張って、お迎えする。
 朝、本社をご出発になり、町内一巡して、昼頃、お旅所である須賀の金比羅さんへ着御、それから、このお旅所で各村の獅子舞の奉納があって、御輿は今宵一夜ここでお宿泊となるのである。
お旅所広場には、色々なものを売る店が一杯出て、賑やかなこと、その賑やかさは、今でも私達の思い出の種にもなるのである。店は夜も出て、大変賑やかであった。
 前にも一寸述べたように日本の敗戰、終戰、占領政策などによって神祭りも一大変換をもたらしたのである。
現在の社会情勢によって、昔のように執り行うことは不可能となった。その第一点として宗教信仰の低下、主立つ若い人の無関心と勤務等による人不足が挙げられ、また諸経費などの問題もあって、現在では供揃はどうにか慣行通り。但し(アルバイトが多い)
奉幣使は廃され、只一人乗馬の神官に、トラックに積まれた御輿が続き、信仰の中心であった、みこしのお泊りもなくなり、すぐ還御という淋しいものになってしまった。

なおこの、みこしの渡御については、昔は多度津家中の天神さんが、このお旅所であったことが古文書に見られる。当時この八幡さんの別当寺、白方の仏母院にある古文書を参考までに記しておく。

熊手八幡宮家中天神御幸
八幡宮御幸此度被仰付に付、氏子共と談し申し行列帳差出し併て御幸、同社馬場先より東白方、多度津新町、同所町内、仲之町、鍛冶屋町、夫より石橋口御門下馬、新町口御門へ出御、同所天神社頭にて御旅休みに相成、還御は同所裏手より船に仕度、其節氏子共より音楽奉納仕、尤も天気の様子にて陸地に相成候節は、豊津橋通りへ還御仕度旨、口上出の趣き右夫夫被成御聞届候間、此段かく相達候
 尚 宮本左京、神主磯崎請の儀につき佛母院より口上出の趣、被成御聞届候 これ又、相達さるべく候
  文政十二年己己歳八月十三日
己上


熊手八幡宮

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