4 雨霧山
 
  昔、土佐の長曽我部元親が讃岐(今の香川県)を攻めて来たことがある。
その讃岐攻めの手始めとして、香川刑部大輔景則を城主とする雨霧城を攻めにかかった。
 この雨霧山は、多度津の南部にあって、山高く、そして峻しい山塞で、仲々攻め落すことが出来ないので、元親は一計を考え出し、これを水攻めにした。
 この雨霧山には涸れることのない深い井戸が今も残っているが、何分大勢の兵士のこととて、山に立てこもっていた人々は飲み水に困り出した。
 ここで城主、景則も考え出した。それは山頂から麓まで、けわしい山道を切り開いて、道を造り、そこへ兵糧として貯えてあった白米をザァザァと流したのである。
 翌朝、早くこれを見た討手の元親は「こう、水があるようでは、水攻めも無駄である」と、気を落していると、丁度そこを通り合せた一人の尼さんに、元親は、「この雨霧山にあのような滝があるのか、どうか」とたずねたところ、尼さんは「それは誤りで、滝のように見えるのは、実は白米をザァザァと流しているのです」と言ったので、元親は、この一言に元気つき、水攻めをつづけさせ、遂に城を攻め落したので、景則は多度津の方へ落ちのびた。
 その後、戦いに敗れた景則の家来は、この尼さんが元親に密通したことを知り、怒ってこの尼さんを切り殺してしまった。
 それから山の名も、はじめて別の名を「尼斬山」というようになったと、伝えられている。
 この雨霧山の標高は382米で、今に雨霧城趾碑が建っている。


天霧山
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